ら抜き言葉は本当にいけないの?

 近年、若者の日本語が乱れてきているという言葉をよく聞きます。確かに先達からすればそう感じられるのかもしれませんが、一応若者の部類に入る(と思っている)僕から言わせてもらうと、100%それが正しいとは思いません。言葉というものは時代時代で変わっていくものだからです。実際、諸先輩方のさらにもっと上の世代は「かたじけない」だとか「たてまつる」だとか「〜で候」とか言っていたはずなのです。でもいつの間にかそんな言葉は使わなくなっている。お侍さんが今の年配の使う日本語を聞くと「乱れている!」と怒り狂うかもしれませんね。
 それはさておき、乱れてきているといわれる日本語の代表格が「ら抜き言葉」。
「食べられる」「投げられる」「逃げられる」などの言葉は、それだけで聞く(読む)と「可能」と「受身」のどちらを意味するのかが伝わりません。
しかし、「可能」を表す場合に限り、最近の若者(と呼ばれる方々)は「食べれる」「投げれる」「逃げれる」といった具合に「ら」を抜いて表現します。これが「ら抜き言葉」。
 この言葉、別に間違っているとは思いません。「ら抜き言葉」は「可能」と「受身」を区別するのにとても便利な表現だと思うからです。
「牛は食べられる」という文章があった場合、そのままだと可能なのか受身なのかがわかりません。二つの捉え方を聞き手、読み手に与えてしまうのです。

「牛は食べられる」=「牛は食べることができる(可能)」「牛は食べられてしまう(受身)」

 ところが「ら抜き言葉」を用いると

「牛は食べれる」=「牛は食べることができる(可能)」に限定することができます。

 どうでしょうか。「ら抜き言葉」は便利でしょう。最近の若者も、あながち間違っていないってことです。
 しかし! これだけ「ら抜き言葉」は間違っていないと主張している僕ですが、文章で使うのはご法度。会話の中で使う分には構いませんが、いざ文章となると「ら抜き言葉」は下品に感じられるのでさけてください。「可能」か「受身」かは、言葉の修飾によって読み手に伝えるようにしましょう。
「牛は食べられる」でもう一度文章を組み立ててみます。
 この一文だと読み手は正しい意味を理解できまぜん。そこで、別の言葉を付け加える「言葉の修飾」を使えば

羊肉は苦手だけど、牛は食べられる=可能

牧場の牛は食べられる運命だ=受身

 という具合に意味がしっかり伝わります。

待て! くそ! 逃げられた=受身

待たないよ! ふぅ。やっと逃げられた。=可能

 文章では「ら抜き言葉」は使わないこと。前後を読めば伝わるように書くのが大切です。

※「られる」という言葉の中には、本文で紹介した「可能」「受身」の他にも「尊敬」「自発」の意味があります。